失われたもう一人の息子

2015年7月26日の礼拝説教要約

聖書:ルカの福音書15章25ー32節

主イエスはパリサイ人、律法学者に教える時に、たとえ話を用いて、自分自身を自分の立場からだけではなく、相手の立場、又は第3者の立場から自分を見させようとされたのです。

人は得てして、自分からしか自分を見ることしか出来ません。自分を外側から見ることが出来れば、問題の解決がそこに見出されることが屡あります。律法学者・パリサイ人は取税人・罪人達の痛み、悲しみ、苦しみや悩みを理解できなかったのです。相手の立場に立つことが出来なかったのです。

誘惑を受けた時に、弱い私達は同じ間違いをしてしまうかも知れません。人を裁いている時はよいかもしれませんが、自分が裁かれる立場に立った時にはどうするのかがここで語られているのです。問題がないことが良いのではなく、問題が起こった時にどのように備えたらよいのかを知ることの方が更に良いことなのです。

主イエスはパリサイ人、律法学者達に対して、一つのメッセージを持って、例え話しをされたのです。もちろん放蕩息子を愛されておられるのですがが、それにもまして兄息子であるパリサイ人、律法学者をどれほど主が愛されておられるかをここで告げておられるのです。
「神は全ての人が救われて心理を知るようになるのを望んでおられます。」テモテ第一2:4
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、全ての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時いたってなされた証しなのです。テモテ第一2:5-6

I.兄の怒り

1. 宴会への相談がなかった。自分が無視された怒り、
2. 宴会への招待状もなかった。除外視された怒り、
3. 父親に対する怒り:どうして弟が財産を使い果たして帰って来た時に叱らないのか。間違ったことをした時に罰を与えるのは当然ではないか。雇人同然に扱うべきだ。彼がしたことはそれ以下である。そればかりではない。どうして父親の最上の衣と指輪と靴を与えたのか。お父さんは甘いんですよ。だから弟は又同じ間違いをするのです。なぜ私にそのことを相談しなかったのですか。私は弟をよく知っているのです。又同じことをしますよ。そして更に、子牛を屠って宴会をしたのですか。お父さんは間違っています。

II.父親の兄息子に対する宥め

1.父親が兄息子のところまで出て来られました。兄のところに出て来てなだめる父の姿に、独り子をこの世に遣わして下さった神様の深い恵 みが示されているのです。
2.兄息子を宥めた。急に弟息子が帰って来たので、話しはあなたが帰って来た時にしよう と待っていたのでした。そのことを理解してくれると思っていました。私はあなたに仕事を任しているので、あなたの予定を邪魔したくはなかったのです。決してお前を無視したり、除外視したりしたのではないのです。

III.兄の主張

1.ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕えてきました。
2.あなたの言葉を、あなたの教えを破ったことは一度もありません。自分たち が神の掟を守って熱心に信仰に励んでいることを否定されたような思いを彼らは抱いたのです。
3.その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません
4.遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですかお父さんは甘いんですよ。だから弟は又同じ間違いをするのです。なぜ私にそのことを相談しなかったのですか。私は弟をよく知っているのです。又同じことをしますよ。お父さんは間違っています。僕はもう弟の面倒を見るのはこりごりです。ここにはいたくありません。僕も出て行きます。勝手にしてください。

IV.父親の兄息子に対する勧め

1.子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。主がいつもあなたと共にいて下さる。
「お前はいつもわたしと一緒にいる」、これこそが、何よりもすばらしことなのです。ここには、どんな報いがあるか、他の人よりもどれだけ 重んじられるか、などということではなく、一緒にいることをこそ喜ぶ愛の関係があります。天の父である神様を信じ、神の子とされて生きるところには、神様 との間にそのような関係が与えられるのです。
2.私のものは、全部おまえのものだ。
神の御言葉の解き証しとみ言葉の奥義とみ言葉の権威を委ねられたのは彼らでした。ユダヤ人は神のみ言葉を子供の時から覚えさせました。何という祝福でしょうか。
父である神様が私たちを子として愛して下さり、「わたしのものは全部お前のものだ」と 言って全てを与えて下さる、独り子の命をすら与えて下さる、その神様のもとで喜んで生きることこそが信仰なのです。兄は、父の家にいることによって現にこのような父の愛を受け、それによって養われています。そのことに気付いて欲しい、そのことの素晴らしさを知って欲しい、そして体だけでなく心も、私のもと に留まって、わたしと共にいることを本当に喜ぶ者となって欲しい、という父の願いがここに込められています。この父の言葉は、既に信仰を与えられ、父なる 神様のもとで生きている者たちに向けられた言葉です。
3.おまえの弟は死んでいたのが生き返って来たのです。いなくなっていたのが見つかったのです。自動的に「起ちてわが父のもとに行こう」という心が彼に起こったのではない。そのような場合、反対に彼が絶望と死の道を選ぶおそれがないとは言えないのです。放蕩息子はどん底の中で我に返った時に、初めてお父さんのことを思い浮かべたのです。どんなに親を悲しませ、苦しめてきたかを知ったのです。そして帰って来た時に知ったのはお父さんの愛でした。楽しんで喜ぶのは当然ではないか。あなた方は、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子として下さる御霊を受けたのです。私達は御霊によって「アバ、父」と呼びます。
4.兄息子が我に返るとはどういうことであったのだろうか。 パリサイ人、律法学者達は憎しみと妬みのあまり、キリストを十字架に付けてしまいました。 しかし、キリストが「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分で分からないのです」(ルカ23:34)と執り成して最後まで彼らを愛された事実を群衆が見た時に、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸を叩いて悲しみながら帰って行ったのです(ルカ23:49)。

彼らはキリストの愛が分かったのです。