誇りはただ十字架

2012年12月30日の礼拝説教要約

聖書:ガラテヤの人への手紙 61118

1、割礼は不順な動機

6章12~13節

割礼を強制する人達はまったく不順な動機からです。

【肉において外見を良くしたい。】

彼らの根本的動機はキリストの福音のためでなく、多くの人に良く思われたいという人間的思い。多くの人は、また彼らはキリストの十字架の敵として歩んでいる。回りの人から良い人と思ってもらいたい。偽教師達は目に見えない罪の贖いの十字架より、目に見える割礼、奉げ物、律法を重視し、イエス様の十字架を軽んじていた。

ピリピ3章18節

『というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。』

【キリストの十字架の為に迫害を受けたくない。】

彼らはユダヤ教の傘の下でキリスト教を生かそうとした。ユダヤ教はローマ帝国の公認宗教であった為その傘の下にいれば無用の迫害を受けずにすむ、多くの人に良く思われると考えたのです。

2.主イエス・キリストの十字架を誇る 6章14~15節です。

人間にとって「誇り」というものは大切です。

その人が何を誇りとするかということによって、その人が大切にしていることやその人の生き方が決まってしまうと言っても良いでしょう。

その人が何を誇りしているかということは、しばしば表には出て来ないで、その人の心の中を支配することもあります。そして、この目に見えるものと誇る心は、往々にして、その反対の、ひがみ、ねたみといった思いと同居するものです。自分が誇っている点において、目に見えて自分よりも優れたものを持っている人の前に出ると、ひがんだり、ねたんだりしてしまう。そういうことが起きるものです。

【しかし、主イエス・キリストの救いに与った者は】

*     神様の御前に出た時、自分の中には誇れるものは何一つ無いことを知らされました。

*     それにも関わらず自分は主イエスによって、十字架の血潮によって救われたということ

だから、ただ主イエスの十字架だけを頼り、ただ主イエスの十字架だけを誇りとするのです。これ以外のもの、血筋、家柄、学歴、職業や収入、自分の才能や能力を誇ろうとする時、それはイエス様の十字架を無駄にすることです。

そして私達の信仰は、熱を失い、力を失い、喜びを失うのです。

【何故なら、それは愛の裏切りだからです。】

神様・イエス様の私達への愛は、イエス様の十字架に現れた愛は熱く、いちずなものです。ですからそれに応え、その愛で結ばれるということは、どうしたって、いちずであるしかないのです。

イエス様の十字架は、どれほど自分自身が罪深い者か知らされます。罪の支配からの開放です。神様との和解の架け橋です。神様の子供とされます。永遠の命を受ける事が出来ます。神様が私自身をどれほど愛していて下さるか分かります。

【このイエス様の十字架を一杯の感謝を持って誇りましょう。】

3、私はキリストとともに十字架につけられました!

6章14節の最後の所