生きる原動力とは何か

2013年3月24日の礼拝説教要約

聖書:ローマ人への手紙 8:11(新改訳・新約聖書276ページ)

8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

生きる原動力とは何か。

まず聖書は人がどのようにして生きる者になったのかを告げています。

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。

そこで人は生きた者となった」(創世記2:7)と書かれてあります。

命は神からの命の息を人に吹きいれられたことによったのです。

神の息によって人は生かされているのです。

私達が生きているのではなく、私達は神によって生かされているのです。

そして、神の時が来た時に、人は神のもとに変えることになるのです。

人は生きる者として神によって創造されました。

それでは人が生きる原動力とは何なのでしょうか。

私達はただ惰性で生きているのであるならば何とむなしい人生でしょうか。

私達は生きる原動力を必要としています。人生の目的があり、希望があり、使命があるならば、必然としてそのための原動力を持つことが出来るのです。

イエス・キリストの原動力

私達がイエス・キリストの生涯をとおしてイエスが如何にこの地上で歩まれたかを知ることはこの地上で歩んでいる私達にとって大きな助けになるどころか、私達が直面する様々な問題に対しての命の道を知ることになるのです。

イエス・キリストは聖霊によって乙女マリヤよりお生まれになりました。

イエス・キリストの生涯は御自身を神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって御自分を低くして謙遜によって、聖霊に導かれ、神の時、神の言葉、神の業をなされた生涯でした。

1.イエスの原動力はまさに聖霊御自身だったのです。

イエスを公生涯に導かれたのは聖霊なるお方でした。

そして、荒野へ導かれたのも聖霊なるお方でした。

十字架への道へ導かれ、そして復活の命を与えられたのも聖霊だったのです。

聖霊は私達の意志を無視して働く御方ではありません。

聖霊は謙遜なお方です。私達と争うこともなさいません。

聖霊はイエスの謙遜な生涯を通して豊かに現れ、イエスの内に満ち溢れておられたのです。ですから、イエスは33年半の地上での生涯の内、30年間沈黙されたのです。

2.イエスの原動力は愛だったのです。

そして公生涯において、イエスは天のお父様の御心を行うために来られたのですが、

イエスはご自分の意志で十字架の道を歩まれたのです。義務で強制されて十字架の道を歩まれたのではなかったのです。

イエスは「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。誰かが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」(ヨハネ10:17-18)と語られています。

イエスは御自身の意志で私達全人類を愛されて、身代わりの十字架の道を歩まれたのです。

イエスの原動力は愛だったのです。

3.イエスの原動力は喜びでした。

「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」(ヘブル12:2)にあるように、

イエスはやがて全人類が救いの恵みに預かることを十字架の先をご覧になっておられました。

イエスの将来を見た喜びはイエスの原動力だったのです。

マルチン・ルター・キング Jr.は

「死ぬことさえも恐れてはなりません。 もし死を恐れるなら、人は自由ではないのです。 しかし、あなた方が死の恐怖を克服したとき、その瞬間にあなた方は自由です」と告げています。

私達に与えられた使命の為に、将来に対して恐れるのではなく、確信をもって、生きる原動力である、聖霊に導かれ、愛に満たされ、喜びに満たされて、この地上の馳せ場をお互い走ろうではないでしょうか。