救いに至る涙

2013年7月21日の礼拝説教要約

聖書:マタイの福音書26章69-75節
69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。
73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。
序:
すべての人は、「激しく泣く」という経験を持っている。
「感動の涙」「悲しみの涙」「後悔の涙」。この三つがその三大理由か?では、今日のペテロはこのうちのどれか?これが今日の説教テーマ。
1.失敗のクライマックス
ペテロが「3度」イエス様を否定するこの出来事は、ペテロの信仰生涯の中でも「失敗中の失敗」「罪の中の罪」。では、ペテロはどのような流れの中で、3度もイエス様を知らないと言い、涙を流すことになったか?
ペテロに対する三つの尋問。
69節(一度目の尋問)、「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」「ひとり」の女中が直接ペテロに尋問。ペテロはあいまいな答え方―「何を言っているのか、私には分からない。」―でもってその場を逃れることができた。1対1は対応が楽だったか?
71節(二度目の尋問)、「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」「ほかの女中」は、ペテロ本人に直接言うのではなく、「他の人々に」に告げ口する形でペテロを追い詰める。「他の複数の人々」に素性を知られることの恐れがペテロを覆う。ペテロの二度目の返答は、「誓い」をして、イエス様との関係体をはっきりと否定した―「そんな人は知らない」―。
73節(三度目の尋問)の際、「そのあたりに立っている複数の人々」が群れをなして、ペテロに詰め寄る。一度目よりも、二度目、そして、この三度目に至ってはいよいよその追い詰められた方が激しくなり、同時に、それに応じるペテロの姿もまたさらに切羽詰ったものになってゆく。74節で、ペテロはイエス様との関係をもう一度はっきりと否定し、なおかつ、「のろいをかけた」。彼は無様にも3度もイエス様を否定した。
では、なぜそんな彼が、大祭司の中庭にのこのこやってきたのか?
彼の弟子としてのプライドだろう。「たとい全部のものがつまずいても、私だけは決してつまずきません」と言っていたのだから。いつ壊れてもおかしくない「ガラス」のようなプライドでもって、この大祭司の庭まで一人やってきた。しかし、1度目、2度目とイエス様を否定し、さらに、3度目の否定に及んだとき、ペテロは精神的にもはや逃げ切れない。追い詰められた八方ふさがりの状態に陥った。「のろい」までかけて主を否定し、その場を逃れることを願った。首の皮一枚だけ残った信仰者としての無残な姿。
では、もしも、その先 ―4度目の尋問― があったら、彼はどうなっていただろうか?
彼は再びイエス様を否定したのだろうか?―できなかっただろう。
つまり、「3度目」で尋問が終わったことは主イエスのあわれみだった。もし「4度目」があったら、ペテロは信仰者としての自分を維持できずにはじけとんでしまったのではないだろうか?ポップコーンが熱によって徐々に圧力が加えられ、やがてはじけるように。
2.悔い改めの涙
74節「鶏が鳴いた」。鶏が鳴くこと、それは、人々からの「尋問」が3度で終わる「瞬間」であり、ペテロがイエス様を否定することを3度で終える「瞬間」。これこそ、神様のあわれみのご介入。ペテロがばらばらにはじけとんでしまうその直前に、神様はペテロの無様な信仰生活の現実に介入してくださった。
75節。鶏が鳴いた直後に、ペテロはイエス様のある一つのおことばを思い出す。「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」ペテロはそのみことばを思い出したことによって、「激しく泣く」。あらかじめ告げておられたイエス様のおことばを思い出したことによって、彼は「激しく泣く」ように導かれた。
では、果たして、ペテロのこの涙の意味は一体何か?
その答えは「悔い改めの涙」。主イエスは、ばらばらになりそうなペテロをぎりぎりのところで救ってくださった。鶏の鳴き声、そして何よりも、ご自分のおことばをペテロに思い出させることによって。
「鶏が鳴く前に三度、あなたはわたしを知らないと言います」
このことばは、ペテロに彼の現実-罪と弱さ-を知らせることば。「自分には」主に従い通すだけの力があるのではない、ということを。この経験とこのみことばによって、ペテロの持つ信仰の「プライド」は弾けとんだ。が、あわれみのうちに、彼の信仰者としてのあり様ははじけとばなかった。それどころか、ここからが本当の信仰者としてのスタートだった。彼はここで悔い改めと回復をいただいた。
3.後悔の涙
ペテロと対照的なのは、12弟子のひとりイスカリオテのユダの姿(27章3~5節)。
この時、ユダもまたペテロと同様、大きな罪を犯していた。彼はイエス様を裏切り、銀貨30枚でイエス様を売ってしまった。そして、ユダはイエス様がピラトに引き渡されたと聞いて「後悔した」(3節)。そして、彼は自分でその「後始末」をした-「自殺」―。ユダは、ペテロと同様、大きな罪を犯し、失敗をした。しかし、両者の決定的な違いは、ユダが「後悔」だけで終えてしまったこと。彼はそこから「悔い改め」につなぐことができなかった。「後悔」とはただ「自分」にだけに向かい、自分の犯した罪の中に留まり続ける。が、
「悔い改め」はひたすら「主」に向かい、罪の中から出て、主の御手の中に入れられる。ユダもまたイエス様に対して悔い改めるべきだった。彼もまた「悔い改めの涙」を流すべきだった。そのためにこそ、イエス様の十字架はあるのだから。人が自分で始末することのできない罪、汚れをイエス様の十字架は解決してくださるのだから。

結論/適用
Ⅱコリント7章10節「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」
もし、私たちの中で、ある一つの罪に深くさいなまれている方がいるならば、ある大きな失敗に捉えられているならば、今こそ、十字架の主イエスにその罪を告白せよ。十字架のもとで「悔い改めの涙」を流そう。今こそ、後悔で終わることのない、「救いに至る悔い改めと回復」の機会なのだから。