子どもを愛されるキリスト

2013年6月30日の礼拝説教要約

聖書:マルコ10章13~16節
「13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。』
16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」
マルコ10:13-16から、子供に注がれるいつくしみと、子供を愛されるイエス様が語られる真理について学んで行きたいと願っています。 1. 子どもを愛される主(16節)
A. 弟子たちの態度(13節)
13節
「さて、イエスにさわっていただこうとして、ひとびとが子どもたちをみもと連れてきた。ところが弟子たちは彼らを叱った」と記されています。
父親、母親が子どもたちをイエス様のところに連れてきて、イエス様に祝福してもらおうと集まってきたのです。イエス様には天来の魅力が満ち溢れていたのだと考えられます。 子どもたちを連れてきた人々をしかりつけ、弟子たちは、この様に言ったと推測されます。
* 子供は向こうに連れて行きなさい!じゃまだ!
* ご主人は忙しくて子供にかかわっている暇は無い!どきなさい!
* 汚い手でご主人にさわるな!
彼らの言い分もわからないわけではありません。というのは、イエス様の周りにはいつもたくさんの人が押し寄せてきました。
* 救いを求めて真剣に話を聞きに来る人々や、病気で苦しんでいる人たち、大きな問題を抱え苦しんでいる人たちもいました。 そんな中で小さな子供たちがぞろぞろ連れられてきたのです。
* イエス様の話を聞こうと集まっていた人たちにとっては大きな迷惑だったでしょう。
* 赤ちゃんの泣き声や、子供たちのはしゃぐ声でイエス様のお話が聞こえなくなったのではないかと思います。 イエス様の心が理解できなかったのです。子どもたちの大切さが分からなかったのです。 キリストの弟子でありながら、主の心を知らない彼らの姿が示されています。
B. イエス様の態度
マルコ9章36~37節
「それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。『だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。』」
幼子は従順な、謙遜な、親を一心に慕うのが子供です。
幼子を受け入れる者はイエス様を受け入れる者であり、イエス様を受け入れる者は父なる神を受け入れる者!
要するに、幼子を受け入れる者は神様をも受け入れる者だと聖書は語っています。
2. 神の国にふさわしい子ども(14-15節) 14節
「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』」
Ⅰコリント 1章27~29
『しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』
赤ちゃんは、罪の性質を持ちながらも、あまりその影響を受けないで、純粋さを持って生まれてきます。ですから、赤ちゃんの笑いには、裏がありませんので、本当にかわいいですね。 子どもの特徴は、純粋で正直なことです。
3、子供達を祝福されたイエス様
16節
『そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。』
イエス様は子どもたちを抱き上げて、手を置いて祝福されたとあります。 聖書のなかにおいて祝福というのは重いものです。一度神の名によってされた祝福は取り消せないのです。イサクをだまして、長男のエサウが受けるはずの祝福をヤコブは奪ったわけですけれども、どんなにエサウが泣いて頼んでも、イサクはエサウを祝福できなかったわけです。一度祝福したらもう取り消せない。どんなに泣こうがわめこうが、祝福は永遠にとどまるのです。 そんな重い重い祝福を、イエス様のほうから子どもたちを抱き上げて、与えてあげた。もちろんいっぺんに抱き上げることなどできませんから、一人一人抱き上げて、頭に手を置いて祝福されたのだと思います。 子どもたちを神様からの大切な賜物として受け止めて、自分の価値観や権威主義によってイエス様の祝福を妨げるようなことがないようにしたいとおもいますし、自分自身もへりくだって、幼子のようになって、主の祝福を願いつつ生きるものでありたいと思わされました。