失われた銀貨

2015年7月12日の礼拝説教要約

ルカの福音書15章8ー10節

1.失われた銀貨と私達について

(1)銀貨は持ち主の手をはなれても離れた事を知りません。無自覚、無意識です。
(2)人も同じように、自分が主の手を離れたことも知らないのです。失われた銀貨は私達全人類を指しています。

2.銀貨の持ち主の女性と私達を創造された神について

(1)失われた銀貨の持ち主の婦人
(2)私達を創造された神
「母がその子を慰めるように、わたしはあなたがたを慰める」(イザヤ書66:13)
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親は自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ49.15)
神は母のような存在でもあることも聖書に書かれています。母親を見ると子供を愛する愛は無条件の愛です。子供が悪かろうが、そんなことは問題ではありません。母は子供の味方なのです。

3.失われた銀貨の価値と私達の価値について

(1)失われた銀貨の価値
銀貨はギリシャ貨幣のドラクマであって、ローマ貨幣のデナリ(一日分の日当と)同じ価値のものでした。 そして銀貨に王の姿が刻まれていました。彼女にとっては10枚の銀貨は婚約者からいただいた結納ですから、一枚なくしたらそのほかの9枚に匹敵するほど大切であったのです。
(2)私達の価値
「神は人をご自身のかたちに創造された」と記しています。神のかたちに似せて造られ、それに栄光と誉をこうむられたというのです。神のかたち・・・外面的、内面的かたちに創造されたことを表しています。 創世記1:27に神のかたちとは、霊的、人格的、能力的、永遠的存在であると共に、聖・愛・義・憐れみ・真実という姿が刻み込まれた人間の事を意味しているのです。主のもとから離れてしまった私達は主にとってどんなに大切なそんざいであるかを聖書は私達に告げているのです。

4.失われた銀貨を捜す女性と失われた人を捜す神について

(1)その女性はあかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜したのです。
(2)聖霊なる神は今もあなたを捜されておられるのです。
天のお父様がアダムとエバが罪を犯した時に「あなたはどこにいるのか」と叫ばれました。 天のお父様はアダムとエバがどこにいるのかをご存知でした。何故「あなたはどこにいるのか」と叫ばれたのでしょうか。いつも会話をしていたのにいつも天のお父様にお会いするのを楽しみにしていたのに、天のお父様の心の中にいたその信頼関係から離れて行ってしまったからです。これは、場所ではなく、アダムとエバの心が主から離れて行ってしまったことの故に、「あなたはどこにいるのか」とさけばれたのです。 今も聖霊なるお方はあなたに「あなたはどこにいるのか」と探しておられるのです。 あなたの心がどこにあるかを求めておられるのです。あなたは自分勝手に自分の人生だから、「自分の自由にさせてくれ」と言って自分の欲の中に、自己中心、自我の中に生きてはいないでしょうか。何か物欲しそうにしていると、簡単に人は誘惑に負けてしまいます。あなたの心の姿勢が大切です。

聖霊なるお方は私達の助け主であることをヨハネ14:16に主イエスは告げられました。私達の弁護者であり、慰めるお方なのです。弱い私達を助けて下さるお方です。御霊みずから、言葉に表せない切なるうめきをもって、私達のために執り成して下さるお方なのです。(ローマ8:27)

5.「見つけた」という意味はどういう意味ですか。

(1)失われた銀貨が持ち主の手に戻されたことです。
(2)私達が見つけられたという意味はどういう意味なのでしょうか。
「ひとりの罪人が悔い改めるなら」とここでは書かれてあります。悔い改めるとはどういう意味ですか。方向転換をすることです。罪とは何か。ヨハネ16:9に罪とは私達が神を信じないからであることを告げています。天地宇宙を創造し、人類を創造された神が御子イエス・キリストを十字架につけて私達の罪の身代わりとしてまでも私達を愛された神の愛を信じないことが罪なのです。悔い改めることは神の愛を信じて受け入れることです。

6.見つけた婦人の喜びと天においての喜び

(1) 見つけ婦人は友達や近所の女たちを呼び集めて、喜びを分かち合いました。
(2)天においても、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。
神の愛は私達の内にはありません。しかし、神の愛を知る時に、神の喜びを受ける時に私達の内から湧き溢れてくるのです。