失われた羊

2015年7月5日の礼拝説教要約

聖書:ルカの福音書15章1ー7節  新改訳聖書 133ページ

1.主イエスに取税人・罪びとらが皆み言葉を聞こうとしてみもとに近寄ってきた。 初めから彼らが近づいてきたのではないのです。

主イエスが彼らに近づかれたから、彼らが近づいてきたのです。お判りでしょうか。
彼らは人がどのような視線で見ているのかを最も敏感に感じる人達であった。 パリサイ人、律法学者達は彼らを上からの視線で、ある意味で彼らを見下げて、軽蔑していたのであった。
彼らは敏感なので、パリサイ人、律法学者達のところへは行かなかった。なぜならば、そこへ行くとお説教されるだけだからである。 彼らは何故主イエスのところへ皆、み言葉を聞こうとして近寄ってきたのであろうか。 彼らは主イエスに受け入れられている愛を知っていたからです。主イエスの御言葉には命があり、力があり、彼らを変えていったのです。 アメリカである売春婦にカウンセリングを受けていたカウンセラーに「教会へ行ってみたらどうか」 大学の教授がインタビューをしていた。 スポーツバーでインタビューをしていた。質問は「あなたが困った時に、どこへ行くか」という質問を持って行った。その時に相手が「あなたは困った時にどこへ行くのか」と聞き返してきたので、「僕は教会へ行く」と答えたら、それを聞いていた連中が5分間も笑い続けていた。 「食事を共にする」ことは、単に話を聞くというよりも、いっそう親密な交際である。しかし、「罪人を迎へて食を共にする」というのであるから、イエスが主人となって取税人・罪人らを食事に招いたのである。わざわざ食卓を設けて招待したか、あるいは話を聞きに集まった罪人らに向かって食事を共にするように招いたか、いずれにしてもイエスの食事の客は、取税人・罪人らのたぐいであった。

2.パリサイ人・学者らの考えは

イエスが人民の教師として立つ以上、自ら律法を守るとともに、律法の尊重を人民に対して要請しなければならない。律法が先だというのである。彼らの生活が初めに変わらなければならないことを主張したのである。罪人と交わると自分までも感化されて罪人になるかもしれないと考えていたからである。 要するに自分を守るために彼らから逃避していたのである。あくまでも自分が中心であった。 もちろん、私達は罪と誘惑から遠ざからなければならないが、罪人に対しては愛を持って接して行くことを主イエスはここで語られているのです。

3.それに対して主イエスは例え話を持って説明されたのである。

最初に語られた例え話は失われた羊でした。

(1)一緒にいる羊たちに迷子にならないように教えることは大切である。

(2)しかし、迷子になってしまった羊にどうするのか。自分の力で帰ってくるまで羊飼いは待っていますか。迷子になった羊は自分からでは帰ってこれないのです。どうすのですかとここで語り掛けるのです。 誰かが探しに行かなければ、迷子の羊はオオカミにキツネに食べられてしまうではないかと語りかけるのです。

(3)私達が迷子になった時に、どうしますか。 今は電話があり、インターネットがあり、位置情報がわかり、現在地を示して、自宅への帰りの道順まで示してくれます。 それでは人生の行く先が分からない人がいます。人生のゴール終着点が見えない人だっています。 右に行ったら良いのか。左に行ったら良いのか。前に進めばよいのか。後ろに下がればよいのか。分からない時だってあります。 そのような時にどうしたら良いのでしょうか。 あなたの羊飼いがこの世のオオカミにあなたが食べられる前に助けに来て下さるのです。自分が帰る道が分からなくてもいいじゃないですか。自分でもどうすることができなくてもいいじゃないですか。 99匹にも優って失われた羊を探し出すまで主イエスは探されるのです。 そして主はあなたの為に主イエスはこの地上に来て下さって、あなたを捜しに来て下さることを期待してください。私達に必要なことは信頼して待つことでもあるのです。 失われた羊は全人類のことを述べています。 アダムとエバが神の許からはなれていってしまったのです。 全ての人は罪を犯したので神の栄光を受けられなくなっているのです。 ある意味では全人類が失われた羊なのです。

(4)羊飼いが迷子の羊を見つけたら、驚かさないように近づいて手を差し伸べます。信頼関係です。相手に恐れさせてはいけません。叱りもしません。迷ってしまったのですから。 その羊に必要なのは助けであり、愛なのです。 取税人、罪人達、いや全人類に必要なのは助けであり、愛なのです。その愛を受けたので彼らは喜んで主イエスのところにみ言葉を聞くためにやってきたのです。 彼らは必要な助けを受け、愛を受けたのです。 お判りでしょうか。
主イエスは恵みが先であり、愛を受けることが大切なことであり、信仰によって人は変えられていくことを話され、決して行いが先ではないことをここで語られたのです。順序が逆になってはいけないのです。