失われた息子

2015年7月19日の礼拝説教要約

ルカの福音書15章11ー24節

天国に行く時にどういうことが起こるのでしょうか

天のお父様の所に帰る時にお父様の方から走ってきて、しっかりと抱き寄せて下さること、そして最上の衣、指輪と靴を用意して、大晩餐会を催して下さることです。
これが天国なのです。

救いは神の前にありのままに出て行くことの大切さをここで示しています。
ここで5つに区分できます。

1.15:1 家族構成

父親と二人の息子

2.15:12-13 息子の遺産相続と浪費

(1)通常の遺産相続 父親が年老いて、財産の管理運用ができなくなった時点で、遺産を分割します。兄は、弟の2倍の分を相続しました。
(2)弟の要求は、通常考えられないものでした。親を敬うことが賞賛されたユダヤ人社会では、なおさら異常なことです。お父さん、早く死んでくれと言っているのと同じでした。
(3)このような場合、父親は息子を厳しく処罰することができたのです。
(4)しかし、父親は弟の要求を呑んだのです。弟は財産の3分の1、兄は財産の3分の2であるが、(申命記21:17)生前贈与の場合は弟は9分の2しかもらえなかったようです(S.キスとメーカー)。父親が死ぬまでは、土地は売ることが出来ませんでした。父親の存命中に分配した財の使用権は父親にあり続けたので、土地の収穫は父親のものでした。兄弟ともにそれに不満であったことが後で分かります。 聴衆のパリサイ人や律法学者たちは、最初からこの父親を軽蔑していました。 弟は遠い国に旅立ちました。弟の年齢は独身でしたから17歳から18歳くらいであったでしょう。当時の遠い国とはガリラヤ湖の東岸のデカポリスの中の一つの町であったでしょう。 そこで、放蕩して財産を使い果たしました。人生経験がないために財産の管理が出来なかったのです。罪人とは神から遠く離れ、堕落した生活で人生を浪費している人達です。 弟とは別に、兄は父親のもとに留まり、堕落した生活から身を守りました。
人生にはいくつかの転機がありますが、その中のあるものは、苦痛を覚えるものがあります。人間とはすぐに心が高ぶる生き物なので、そういうことでもないと自分の本当の醜さに気付かないし、どこから自分が転落したかも分からないのものです。 自分勝手な生き方が自由な生き方であると思い込んでいる人がいつの世にもたくさんいますし、それは神を神としないところからきているのです。 前の羊と銀貨のたとえと違って、この息子の場合は故意にその家を離れたのです。 しかし、故意にであっても、無意識のうちにでも、人間は神から離れ、神との交わりを絶たれて失われた状態にあることに変わりはありません。

3.15:14-16 大飢饉

放蕩生活の結果、彼は生き延びるために、ある雇主のところに身を寄せました。豚を飼っているので異邦人です。イスラエル人にとって豚は汚れた生き物であったから(レビ11:7)、豚飼いは、ユダヤ人にとっては最悪の職業であるし、呪われていた職業でありました。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、雇主は彼に不当な扱いをして食べるものも与えませんでした。聴衆は罪人は当然の報いを受けたと思ったのです。自業自得です。弟はユダヤ社会から切り離されたので、ユダヤ社会からはどんな援助も受ける資格も失ったのです。

4.17-20 本心に帰る

最悪の状態で目が覚めました。父親と現雇主の対比が出来ました。 自分は飢え死にしそうになった時に、息子は本心に返ったのです。今まで人のせいにしてきた人生の中で、初めて我に返ったのです。誰が悪いのではなく、自分だったことが分かりました。
聴衆は弟の決断をとんでもない「思い上がり」と考えたでしょう。

5.15:20 父親の愛

父親は息子を探しには出かけなかったのです。ずっと家でその帰りをひたすら待っていました。主はこのたとえによって、罪人が帰って行くべき唯一の場所として天の父親を指し示しておられます。 父親は家から遠かったのに、息子を見つけた時にかわいそうに思ったのです。走り寄って、彼を抱き、口づけしました。父親は息子の言葉を途中でさえぎり、彼を息子として迎えました。最上の着物、長子の権威を授けました。指輪は家を治める権威を表していました。そして、靴の象徴は、奴隷ではないことの意味、共同経営者であることの意味でした。宴会を開いたのです。宴会は神の国の象徴です。聴衆は悔い改めた罪人が御国に入っている姿を想像することが出来たのです。救いとは、もっと神との交わりの中に自分をさらけ出していくことです。人の前で自分の罪を認めることは恥ずかしいことでしょう。神との出会い、自分の本当の姿を認め、ありのままの自分の姿を知って、その罪を赦すことの出来る神のもとに帰ることなのです。