もっとも大切な事

2012年1月22日の礼拝説教要約

題:「もっとも大切なこと」
聖書:コリント人への手紙 第一 15:1-5

1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

もっとも大切なこと

聖書で語られている最も大切なことについて聖書の中の3箇所から語らせて頂きます。
第一番目はコリント人への手紙 第一 15:1-5からです。

この箇所で最も大切なことは福音です。

福音とは「キリストが私達の罪の為に十字架で死なれたこと、そして、墓に葬られたこと、

そして三日目に死から甦って、死の奴隷より人類を解放し、完全な贖いを成し遂げて下さったこと、そして、私達がそのキリストの十字架の完全な贖いを信じる時に私達の罪が赦されて永遠の命を持つこと」です。

人類が歴史を通して一生かかっても成し遂げられなかった罪の奴隷からの解放をキリストの身代わりの十字架の死を信じることにより成就される全人類に成された贖いなのです。

私達は気を付けなければなりません。

奇跡やしるしや、不思議、癒やし、大いなる技などは何も悪いことではありません。
悪魔だって奇跡やしるしや、不思議、癒やし、大いなる技をして人を惑わすのです。

しかし、悪魔は福音を語ることをしないのです。
人間が簡単に救われてもらっては困るからです。
福音は聖書が語る最も大切なことだからです。

第2番目はルカの福音書10:38-42からです。
イエス様が語られた最も大切なことについて語らせて頂きます。

38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』

41 主は答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』

ここでイエスが語られているのは、最も大切なことが何であるかが語られています。

最も大切なことは主のみ声を聴き、主と語り、主の御心が何であるかを知ることが何よりも大切なことであるとここで告げられています。

マルタは接待のことで忙しくて、客をもてなすどころか、イエスに文句を言ってしまった程でした。マルタは主客転倒してしまったのです。

第3番目はコリント人への手紙 第一 13:1-8、13、14:1からです。

1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。14:1 愛を追い求めなさい。

ここでは私達の動機について何が最も大切であるかを告げています。

イエス・キリストは教理が間違っているパリサイ人、律法学者、祭司、サドカイ人に対して愛を持って忠告され、十字架上でイエスは全ての人の為に執り成しをされたのです。

あなたがたが人々に接するときに、全ての人に愛を持っているかが問われているのです。

「あなたの敵を愛し、迫害する者の為に祈りなさい」とあります。人はあなたの敵ではないのです。

今から十数年前に信州クリスチャン修養会の講師としてお迎えした海老名教会の生島陸伸先生のメッセージの中でこう語られていました。

私はある青年が6才の時からその青年とそのお母さんを20年以上も付き合っています。

そのお母さんは両親から愛されたことがなかったのです。「私は愛されて育ったんじゃない」と言っていました。何時も何時も、「私はこの世に生まれなかった方が良かった」と言っていました。そのお子さんも「お母さんは私を愛してくれない」と言い続けているのです。

お子さんはシンナーに入っていて、酒を飲みすぎるのです。

お母さんはこれを良くしようとするので、ある日、命からがら、顔にあざを受けて逃げてきました。私は「別れた方がいい。子供を置いて、別な所を借りなさい」と助言しました。

「私は生まれなかった方が良かった」とお母さんは自分を否定し続けてきました。
子供の暴力を避けて、アパートを借りましたが、公には教会の住所にしました。
その子は暴力団の組員になって、「お母さんに愛されていない」と言っていました。
その子はお母さんに「マンションの名義を自分の名前に変えろ」と言ってきました。
その子は床屋の主人に「新聞の三面記事を見ていろ。『牧師夫妻と母が殺された』という記事が出たら、それは俺だ」と言ったそうです。
そのことをお母さんが牧師先生に話したら、「一緒に死んだらいいよ」と言ったそうです。

生きるか、死ぬかという問題の中で、教会に来て、神様の恵みを求めました。

息子が教会にやって来た日、お母さんは息子にお茶を出して、謝りました。

「お前に愛を感じさせなかった。私も愛を受けなかったから、分からなかった。」

神様との間が解決したら、物欲が無くなったのです。

「このマンションはお前にあげるよ。」

息子は「調子くるっちゃったな。調子くるっちゃったな」と連発して、帰って行きました。

髪は金髪で染め、パンチパーマをして下駄履きで教会の礼拝に入ってきました。説教を始めると、1分もしない内に寝始めるのです。

入り口の所で息子は私に「眠っちゃいまして」と言ってきたので、私は「眠ってもいいからおいでよ」と言ったら、それから毎週来るようになりました。分かったら信仰に入るのではありません。

不登校の子を持っているお母さん達が「その子を見てると希望が出てくる」と言って、皆から、その親子に握手を求めて来ました。長い悲しみと涙の後、キリストの側に行く時に、変わらない筈はないのです。