ただこの一事を勤む

2013年6月23日の礼拝説教要約

聖書:ピリピ人への手紙 3:13
「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、」
私たちクリスチャンにとって、絶えず心に留めて励まなければならない一つのことがある。パウロはそれを主イエスに誉めてもらうことだと言った。それを確認したい。 1.「十字架は賛美」 主イエスは十字架上で7つの言葉を叫ぶ。 その4番目の言葉が「神よ、どうして私を捨てられたのですか」である。これは詩篇22篇冒頭からの引用であり、マタイとマルコの福音書にそれぞれ記されている。確かにそれは苦しみの叫びに始まる、だがその詩篇全体の内容は神への賛美となっている。本来は呪いであった十字架が、人類の救いの道でもあったことを見届けることができて父なる神を賛美したのであった。 2.「主を賛美せよ」 詩篇22篇の25節は「わたしは賛美するために造られた」という訳である。 オーガスティンは「人は神のために造られた」と言っている。 家内の節子は召される4ヶ月前に死の宣告を受けた時、その直後に「信仰こそ、旅路を導く杖、弱きを強むる力なれや」と歌った。節子には死を目の前にしても主は賛美すべきお方であった。その死の向こうにこ そ、私たちの本当に生きるべき世界が待っていることを知っていたからだった。それがまた残される家族にとっても希望である。天国での再会の希望をもたらした主こそ、賛美を受けるに相応しいお方ではないか。 3.「ただこの一事に勤む」 聖書の中で最も大切な教えは一体何かと学者たちが主に尋ねた時に、主は神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することだと答えられている。 では私たちの最も身近にいる隣人は誰かというと、それは伴侶であり、兄弟であり、祖父祖母である。つまり家族伝道である。でも、それは最も困難を極める。家族は私たちが福音を伝えるような資格も何もないことを誰よりも一番良く知っているからである。では、語らなくても良いかというと、そう聖書は言わな い。隣人を愛せよとは神の最高命令であり、どんなに私たちが罪人であり、語るに相応しくない者だとは言っても、語らざるを得ない人類の希望こそが福音だからである。この人類の希望に生きるという一事に励むことこそ、私たちの使命である。