#6 兄弟

21. 兄弟

母は教会役員で婦人会の会長をし、教派を超えて教会のご奉仕をさせて頂き、学校ではPTAの役員をし、孤児院で食事作りのボランティアをし、生活協同組合コープの消費者代表会員であったので、いつも忙しく出掛けている事が多かった。教会で結婚式をする時には教会に寝泊りをして披露宴の準備をするほどであった。

友幸が学校から家に帰ってきた時にはいつもの様に母がいなかった。そして机の上に手紙が置いてあった。

「友幸さま、今日は教会のAさんが病気で寝て居られるのでお見舞いに行ってきます。帰りには教会に寄って特別集会のお食事の段取りをして来ますので夜7時までには帰ります。

次の四つの事をお願いします。

・ ご飯を6合炊いてください。

・ お風呂を沸かしておいてください。

・ お部屋をかたづけて掃除してください。

・ お布団を敷いておいてください。

いつもお願いしてごめんなさいね。よろしくお願いします。母より」

友幸一人で全部をすることは大変なので、良治、善也、恵利子を呼んで仕事を四等分して、ジャンケンをして勝った者から仕事を選ぶのであった。そして誰が一番早く出来るかを競争したのである。

母が友幸に電気炊飯器でご飯の炊き方を教えた。そして友幸が良治に教え、良治が善也に教え、恵利子は皆のしている事を見ながら覚えたのである。

当時3才であった恵利子は流し場に手が届かないので椅子を持って来て椅子の上に立ってお米を洗い、水を目盛まで注いて電気釜の中に入れて電源を入れた。

ある時、皆が一斉に仕事に取りかかった時、善也が友幸に

「どうして、僕がご飯を炊いたりしなければいけないの」と聞いてきた。

善也が友達に聞いたら友達の中では誰もご飯を炊いたり、お風呂を沸かしたり、お部屋を掃除したり、お布団を敷いたりする人は誰もいなかったのである。

恵利子は仕事を止めて二人の会話を聞き入っていた。

良治だけはさっさと自分の仕事を済ませて休憩しながら兄弟達の会話に耳を傾けていた。善也の言う事はもっともなことなのである。しかし、友幸は説明しなければならない。友幸も彼らと同感なのであるが、そうかと言って仕事を止める訳にはいかないので、彼らに「今日はひとまず仕事をして、お母さんが家に帰ってきた時にそのことを聞こう」と話した。母が家に帰って来た時にはいつものように子供たちに

「恵利ちゃん、善也、良治、友幸、有難う。皆いい子だったわねえ。お母さん嬉しいわ。お土産買ってきたからね。御馳走これからつくるからね。ちょっと待っててね。有難う」と感謝するのであった。

子供たちは母に喜んでもらったことに満足し、不平等は忘れてしまうのであった。

母はお兄ちゃんの言う事を聞きなさい。といつも弟達に言って聞かせた。兄を尊敬させると(今でも敬語で話をしてくれる)友幸に注意をすれば弟達に伝達出来るという忙しい母の教育の仕方であった。友幸は家の中では何時も兄貴風を吹かせて、「弟は兄に従わなければならない」ということを常日頃教えるのだけれども、彼らの言い分は「それは不公平だ。お兄さんだけは何時も僕らに命令だけしている」との事であった。

友幸が中学二年の頃、新約聖書を初め読み始めた時に下記の御言葉が友幸の心を突き刺した。

「兄弟たちに対して怒る者は、誰でも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引き渡されるであろう」(マタイによる福音書5:22-24)。

「人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁く裁きで、自分も裁かれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか、自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか、偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるであろう」(マタイによる福音書7:1-5)。

友幸は弟達に「バカだなあ、そんなことをして」とよく言った事を思い出し、弟達を侮辱したことをその晩、真剣になって神様に赦しを求めた。そして、良治、善也、恵利子にもそのことを謝った。その時から弟達に対して怒ることを止めた。友幸自身が神様に向きを変えた時に、不思議な事に、何時も友幸に逆らっていた弟がその時から「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と側に寄って来て何でも友幸に話してくれるようになった。聖書に書かれていることは真実である。

「まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるであろう」(マタイによる福音書7:5)。

22. 転居

友幸は何時も留守番をしていたので、母と教会へは特別な行事がある以外は行っていなかった。友幸が小学校3年の夏、家族は神戸市高羽区高羽町の県営分譲住宅から芦屋市平田町に家を転居した。芦屋の家は海岸まで歩いて30分程、山へは1時間程、芦屋川へは5分程、阪神電鉄芦屋川駅まで5分程の距離であったので、遊ぶために絶好の場所であった。友幸はよく友達と海や池へ魚釣りに、川へは仕掛けの網と網を持って魚取りに、山登りに、冬は屋内アイススケートに行った。近所の友達と野球をしたり、かくれんぼや缶けりなどをして日が暮れるまで外で遊んだ。

友幸は神戸の六甲にある高羽小学校を3年がおわるまで電車通学をした。

そして、4年になる時に芦屋の精道小学校に転入した。転校生だったのでいじめを受けた。いじめっ子が友幸の頭の毛を引っ張って「おい!泣け」というのである。泣きたくないのではあるが、頭の毛をひっぱられると自然に涙が出てくるのである。そして涙が出ると、いじめっこが「ほら、泣いた。泣いた」と喜んで、皆で笑うのであった。だから休み時間はいつも一人でいた。誰も友達になってくれる級友はいなかった。ある時、友幸は学校の廊下で担任のM先生を他の生徒と一緒になって「M先生はいつも女の子には優しいんだね」とひやかしたことがあった。それはM先生に友幸にも気を止めてほしかったからであった。しかし、M先生はその時に腹を立てて友幸をじっと睨んで立ち去った。

家の隣近所では子供たちが多く、野球の人数が足らないと友幸も一緒に仲間に入って遊んだ。だからキャッチボールはうまくなっていた。

体育の時にソフトボール投げの測定があり、投げ終わった人はソフトボールが落ちた点を教師にお教えるため測定係になるのであった。

友幸もソフトボールを投げた後は測定係になってボールが落ちる地点を見なければならなかった。

ソフトボールが友幸の所に飛んできた。友幸は野球をしていたのでとっさにボールの落下地点にいち早く行く事が出来た。友幸の感覚としてはボールを取ることが頭の中にいつも入っていたのでボールを取りに行ったのである。しかし、これは野球ではなく測定であるからボールを取ってはいけないのである。取る寸前になって「ボールを取ってはいけないんだ」と気が付いた。そして体を後ろにずらしたが、時早や遅しでソフトボールが友幸のお腹に当たってしまった。

それを見た担任のM教師は走って来て「なぜボールに当たったのか。測定ができないじゃないか。何をしてるんだ」とカンカンになって怒りだした。友幸はどう謝って良いか分らなかった。すると友幸の左の胸を担任の右手の人差指と中指の二本で思いっきり突かれた。その為に友幸の体は二三歩後ずさりして後ろにのけ反った。しかし、それだけでは治まらなかった。続けざまに教師の二本の指でおなじ左胸を何度も何度も突き飛ばしたのであった。校庭の真ん中から端まで突き飛ばされた。あまりの痛さで涙もでなかった。教師の怒りが治まったのか。友幸を一人そこにおいて、体育の授業が進み、体育の授業が済んで皆が教室に戻っても友幸は一人校庭に取り残されたままでどうしてよいか分らなかった。一部始終を職員室のある教師が見ていたが何もそれにたいして助けてくれはしなかった。

しばらく一人で校庭の端に立っていたが、ずっとそこにいるのもおかしいと思って教室に戻り、授業を受けた。担任の教師は友幸を無視していた。

友幸は学校から家に帰った時に胸の痛さと熱で咳が止まらなくなった。熱が下がらず、咳が止まらないので母が病院へ友幸を連れて行った。医者がレントゲンに白い点があり、外からの衝撃のせいだと診断した。母は学校で何があったのかと友幸に問いただしたので、友幸はソフトボールの事件を話した。すると、母が怒って学校へ電話すると言いだした。その時、大阪教会の赤羽義春先生が月に二度家庭集会を持って下さっていた。その中で赤羽先生が『信仰を持つと必ず悪魔がいろんな問題を持ってこさせて私達の信仰をなくさせようとします。どんなことにも驚かずに信じ続ければ神様の栄光が現れるのです』と語って下さっていたので、友幸の心の中はM先生に対しての何の恨みも何の反感も持っていなかった。不思議なほど心の中は平安であった。故に母に「学校には電話しないでくれ。担任の教師を責めないでくれ。先生を責めるのは良くない。神様が癒して下さるから」と懇願したのであった。母は「あなたは信仰を持っているのか」と問うて来た、友幸は「信仰を持っている」とはっきりと母に言った。母は学校には電話をしなかった。友幸は「人と争うのはよくない」との姿勢を持っていたのである。

友幸はそれから咳をすると咳が止まらなくなった。そして、気管支炎になった。病院の医師が友幸に忠告してくれた。「咳をしたら喉の詰まっているものがとれると思うけれども、咳をしたい時に咳を抑える様にすると咳は治まるのだよ」と教えてくれた。その時から喉につまっているものを出す為に咳をしていたのを止めて咳をしたい時、抑えたのであった。すると不思議に咳が止ったのである。医者から教えられた知恵であった。

レントゲンには肺結核の後のように白い影が残っていた。医者は「受験の時にこの白い影があると学校側は肺結核との診断をして受け入れてくれませんね。しかし、幸いなことに丁度、心臓に隠れているため、前からとったレントゲンには映らないから分らないでしょう。」と言ってくれた。不思議な事に神様はレントゲンに映る白い影も後に癒されるのであった。

友幸は勉強という勉強をしないので成績は何時もクラスの中で5段階の中で3か2であり、算数のテストが悪かった。

母はその成績を見て、友幸に「なぜあなたは勉強しないの。勉強の方法を知っているの」と聞いてきた。

友幸は「知らない」と答えると、「算数ほどやさしいものはないのよ。国語では意見を聞かれたらいろんな答えがあるけれど、算数の答えは一つだけなの。お母さんが教えるから一緒に勉強しよう」と言って、教えてくれた。母が教えてくれても友幸は上の空で分らない。母は「友幸、ボーとしてないで気持ちを集中しなさい。算数には公理と定義があるからこれを覚えなければ問題の答えは出てきません。算数は積み重ねだから、今の問題が分らない時には前に習った事を復讐すると答えが見つかります」と言ってくれた。夜は友幸は眠たくて集中できないので、早朝午前5時に起こされ母は算数の問題の解き方を教えてくれたのである。そうすると、算数の問題が一人でも解けるようになった。朝型なのか友幸は朝早く勉強した方が集中出来て、あっという間に3時間が過ぎてしまうのであった。そして、もう学校に行かなければならない時間になるのであった。「もっと勉強していたい」との気持ちになるほど、勉強が楽しくなった。すると一人でも勉強するようになり、分らないところを母に聞くという様になった。

小学校5年生になって担任の教師が北河原先生に変わった。今までは黒板に書かれた学期末のテストの日とテスト範囲を気に留めないで通学していたが、算数が楽しくなってからは学期末のテストの日とその範囲を知って前日には総復習する様になった。算数の成績がクラスの中では50人中5番以内になった。算数は何時も100点を取るのが多くなった。

算数の授業の時、先生が語っても理解できない生徒に「この問題が分らない人は、分かる生徒に聞きなさい」と言ったのである。北川原先生は生徒たちをよく用いてクラス全員に問題の解き方を教えたのであった。そして、友幸が分らない生徒に教えるとその生徒達はよく理解できるようになった。そればかりではなく、先生は黒板に問題を書いて、「この問題を解ける人は前に出て答えを書きなさい。答えを書くだけではなく、どうしてその答えが出たのかを説明しなさい」と言うのであった。誰も前に出て行かないのを見て、友幸は何時も優々として前に出て答えを書き、説明するのが常であった。北河原先生はよく友幸を用いてくれた。

それは友幸が苦労して分らないところから算数が理解できるようになった鍵を知っていたからである。それは母が友幸に算数の勉強の方法を教えてくれたからであった。

23. 教会

友幸が小学校6年の冬、ある日曜日、級友3人とアイススケートに行った帰り、一人の神学生(牧師になる為に学んでいる学生)が級友に声をかけてくれて紙芝居を見せてくれた。そして近くにある教会(日本イエス・キリスト教団 芦屋川教会)まで連れて行ってくれて、山田春枝牧師、K副牧師を紹介してくれた。そのことを母に話したら、不思議や不思議、その教会は祖父、堀内文一が建てた教会であった。

それから、日曜日には歩いて10分程の芦屋川教会に行くことになった。

小学校6年4組、友幸のクラスに阪本君が転校してきた。いじめっ子が阪本君をいじめはじめたので、友幸が中に入って阪本君を助けたのでいじめはおさまった。その時以来、阪本君と友幸は親友になった。

母が参観日に太田君のお母様とお話しすることができ、『息子が言う事を聞かないのでどうしたらよいか』との相談を受けていた。友幸が教会に行くようになり、母が「太田君を教会に誘ってあげなさい」というので、教会の行く道で太田君を誘いに行った。お母様が出て来られて「早く起きなさい。堀内君が来てるよ」と言われたので、太田君が出てきて、「何や」と聞いて来たので、「教会に一緒に行こう」と誘った。すると太田君は一つ返事で一緒に教会へ行った。

それから、毎週日曜日の朝には太田君を誘いに行った。太田君も「今日は行かない」と断るのであった。母は「断られても毎週、太田君を誘ってあげなさい」と言うのである。毎週友幸が誘いに行った。5回誘って、1回は一緒に行くというペースであった。友幸は「太田君の気持ちになれば、毎週、毎週、誘われるのも嫌ではなかったのかな」と後で同情したのであるが、それから40年程経った後で太田君が友幸に話してくれたことは「結婚した時に、子供のころ教会に行って、讃美歌を歌い、聖書のお話を聞いた時に心に平安が与えられた。そのことが何時も忘れられなくて、妻に、『教会に行って、クリスチャンになれ』と言って、妻はクリスチャンになり、今は家族で子供も教会に一緒にいっている」ことを話してくれた。

断られても、断られても、太田君を誘ったことの答えを知ったのであった。それは、母がいつも太田君の為に陰で祈っていたからであった。

友幸が中学2年の冬、山田春枝牧師より「洗礼を受けられますか」と問われた。そのことを友幸が両親に話したところ、母は喜んでくれたが、父は「時期がまだ早すぎる。せめて高校に行ってからにしたらどうか」と忠告を受けた。その旨を山田牧師に伝えた時に、山田牧師は「あなたは神様を信じていますか」と言われ、友幸は「はい。私は神様を信じています」と答えた。すると山田牧師は「それならば洗礼を受けなさい」と言われた時に「あっ!そうか。洗礼を受けるのは自分で決めるのだ」と初めて気が付き、父に「僕は洗礼を受けたいので受けさせて下さい」と話した。父は友幸の決意の固さを確認したかったのだ。暫く黙っていたが「分った友幸、もし洗礼を受けるならば途中で止めるようなことをせず、最後までクリスチャンでありなさい。分りましたか」と忠告してくれた。友幸は「はい」と決意を新たにしたのであった。

その旨を山田牧師に話すと、「それでは洗礼の準備をしましょう。悔い改めるために、今まで悪い事をしてきたことを便せんに書いてくるか。口で告白しなさい」と言われた。

友幸は「洗礼を受ける」と言ったものの、こんなことまでしなければならないのかと少し反発を覚えたが、もうすでに父に「洗礼を受ける」と言ってしまった都合上、後戻りすることは出来なかった。

友幸は便せんに今までにしたあらゆる悪い事を書いてK副牧師に持って行った。K副牧師はそれを読んで、「あなたこんな悪い事までしたの」と見かけによらないわね、というような呆れた顔で友幸を見ていた。

子供の頃から、5代目のクリスチャンホームに育ち母から神様のことを教えられ、共にお祈りをしてきたので、理屈ではなく、心の中に体験的に神様を知っていた。しかし、イエス・キリストのことはあまりよく知らなかった。

洗礼式の時がやって来た。1962年12月23日、日曜日の礼拝の日に小島伊助牧師(日本イエス・キリスト教団顧問)が特別講師として来られて友幸と他4名の方々に洗礼を授けるために来て下さった。初めに小島牧師は友幸に「堀内友幸兄、あなたはイエス・キリストが神であられ、乙女マリヤより生まれ、あなたの為に十字架にかかって死んで下さり、三日目に死から甦って、あなたの罪を赦して下さったこと、信じることにより永遠の命が与えられている事、そして天に昇り、父なる神の右の座であなたの為に今も執り成して下さっている事、そして再び再臨して下さることを信じますか」と尋ねられたのである。友幸はイエス・キリストが神の子であることはうすうす知っていたが、乙女マリヤより生まれたことや、まさか友幸の為に十字架にかかって下さった事、死んだだけで無く、三日目に墓から甦った事、友幸の罪が赦された事、天に昇り又、地上に来て下さる事などは友幸の常識と理性ではとうてい理解できるものではなかった。

小島牧師は友幸に「それを信じますか」と聞かれたが、友幸は頭を斜めに傾けた。友幸には信じられなかったのである。小島牧師は三度四度と「信じますか」と言われたが、友幸は頭を斜めに傾けるだけであったので、「それでは、すこし考えてみて下さい」と言われて、次の方に同じ質問をされた。友幸にはどう考えてみてもそれは信じられないことであった。次の方、その次の方たちは「はい。信じます」と答えていた。友幸は心の中で、『彼らは本当にそれを信じているのだろうか』と彼らを疑うほどであった。小島牧師が最後に友幸のところに帰って来て、「堀内兄弟、信じますか」と尋ねられたが、友幸はまだ頭を斜めに傾けるだけであった。小島牧師はその時に友幸の洗礼をやめてもよかったのだが、小島牧師は今友幸は全てのことを信じられないが、後に信じることになることを確信していたので、友幸に洗礼を授けることに惑いはなかった。そして驚くことに小島牧師は質問を変えたのであった。そして、

「今、堀内兄弟はイエス・キリストの処女降誕も、復活も昇天も再臨も理解できないけれど、後になって神様がその真理を教えられる時にはそれを信じますか」と聞いて来られたのである。友幸はその時には喜んで頭を縦に振って「はい。信じます」と答えた。そして洗礼を受けたのであった。だから、友幸には救いがハッキリしていなかった。後にそのことを体験する事に成るのだが、神様の摂理の素晴らしさに感謝せずにはおれない。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネによる福音書15:16)