#4 隣のお姉さん

13.隣のお姉さん

友幸は西隣のお姉さんの家に遊びに行った。そのお姉さんはいつも外に出ないで家に閉じこもっていた。友幸が行くと喜んで、いろんなことを優しく教えてくれた。糸にボタンを通して真中に置き、糸の両端を両手で持って、丸く回して、ピンと引っ張ると、ボタンだけがクルクルクルといつまでも回るのである。友幸もお姉さんに教えてもらって遊ぶのが好きだった。しかし、そのお姉さんの話し方は訥弁だったのである。友幸は可哀そうに思って、自分もお姉さんの真似をしてどもってあげた。それが友幸の優しさだった。しかし、家に帰ってきた時に友幸は母に話す時にもドモリだした。母はそれを知ってか、それ以来、となりの家には遊びに行かせなかった。友幸が「隣のお姉さんのところに遊びに行きたい」と言っても母は「今は行けません」と言うばかりであった。

14.幼稚園

友幸が6才の時、神戸市立若草幼稚園に入園した。入園、次の日、母は友幸に一人で幼稚園に行かせようとしたのである。昔は子供を幼稚園まで送る母はすくなかった。初めて母と離れて幼稚園に行かなければならない。友幸は母と離れたくないので幼稚園に行かない。母は「友幸、幼稚園に行ってきなさい」と大きな声で叱るのである。しかし、友幸は行かない。母は友幸を外に連れ出し、友幸一人で幼稚園に行かせようとして前を歩かせるのである。友幸は後ろを振り返って、じっと母を見て動かない。すると、母は友幸を追いかけてくるのである。友幸は母につかまるのが嫌で走って幼稚園に行こうとする。そして、後ろを振り返る。母はじっとそこで立って見ている。友幸が母と離れるのがいやなのでまた足を止めて母を見る。すると、母は又、友幸を追いかけて来るのである。そうこうして坂の上まで友幸は逃げて走り出した。

そこは曲がり角でもう母の姿が見えなくなった。しかし、友幸は曲がり角まで戻って、又家の方を見た時に母は坂の下で友幸を見ていたのであった。友幸はその時にはもう帰るのを観念して、幼稚園の方角に向かって川沿いの道を下って幼稚園に行った。幼稚園ではあるお母さんが息子を門のまえまで連れて来ているのにその子は泣いて入ろうとしないのである。その横を吾知らぬ顔で友幸は入って行った。

幼稚園で友幸はクラスで園児を笑わせるのが得意で若い女の先生が黒板に向かってものを描いている時に、先生の後ろで面白い顔をしたり、先生がおならをした様子を手で園児にしめしたりして園児が一斉に笑いだした。先生はそれに気づき、友幸に向って「あなた、何をしたの」と怒り出した。友幸は黙っていた。するとまだ若い先生だったので、怒って、「何をしたのよ。返事できないならば、講壇の上で立ってなさい」と言われて、遊び時間中も、友幸はよく立たされていた。

15. 二番目の弟、善也

1954年8月、二人目の弟、善也が生まれた。善也はひ弱な良治と違い、丸々と太り、健康そのものであった。善也が泣く時は、大きな声で泣いていた。母は赤ちゃんにとって泣くことも一つの運動であることを知ってベッドの上に泣かせたままにしていた。友幸はベッドの傍で善也を見に行くと、善也が友幸を見るなり、さらに大きな声で友幸をみながら泣き出した。友幸は善也のあやし方が分らないので、そばで善也を見ながら善也の気持ちを思って涙が出てきた。すると善也も善也でさらに大きな声で泣くのである。友幸も一緒になって可哀そうで涙を流していた。それを見た母が「友幸も一緒に泣いている」と笑ったので、バツが悪くて、隣の部屋にそそくさと行ってしまった。

善也が泣きだすと良治とは全く反対で「ウォー、ウォー」と泣くのである。母は善也が泣くと泣き止ます術として口に食べ物を入れた。すると善也はどんなに泣いていても泣くのを止めた。

16. 小学校

友幸が小学校2年生の時に書いた絵日記を紹介する。分りにくい言葉に注を加えたり、すべてひらがなであったところを漢字に直した。

(1)弟のお見送り

「ぼくは今日、良治に、学校まで、送ってもらいました。ぼくは『早く、帰ってくるよ』と言って良治に手を振って、学校に行きました。学校では、居残りが、ぼくを書いています。」(居残り班が今日の居残りの名前[放課後、何か忘れてきた人や、何か罰の為に教室に居残ること]堀内を黒板に書いていたのであった)。(1956年5月29日[火])

(2)試験の点数

「ぼくは、今日、四十点を、とってきて、ものすごいお母ちゃんが、カンカンに怒りました。ぼくは、こんな目に、あったらいやだなと思い、これから勉強を、します。お母ちゃんは、たたいたりぶつけたりしてものすごい怒っています。お母ちゃんは『外へ出て行け』と言いました。ぼくは、もう、『出て行こうかな』と、思いました。お母ちゃんは、『その上(40点より上の点を)とってきたら かんにんしてあげる』と言いました」(1956年6月5日[火])。

「ぼくは、今日 百点三つもとってきました。お母ちゃんは、『いっぺん頭を、なぜてあげよ』といいました。ぼくは、『はい』といって、お母ちゃんに、なぜてもらいました。

ほくは、『あそんでくるよ』といいました。お母ちゃんは、『はい』といいました。ぼくは、外へ出て良治とあそびました。ぼくは、『何かして遊ぼう』と言いました」(1956年6月6日[水])。

(注:今思うと絵日記を読んだ優しい担任の先生が友幸を可哀そうに思って、誰でも100点を取れるやさしい試験にして母に喜んでもらえるようにしたのではなかったかと思われます。)

(3)ホームシック

6月11日に学校がすんだ後、宿題をして六甲から阪急電車で芦屋の叔母の家に一人で行った。母はすでに芦屋にいた。次の日は友幸一人で六甲へ帰ったのであった。

「ぼくは、今日、早く起きて、六甲へ帰りました。ぼくは帰って、給食(給食用の食器)を洗って、学校の行きし(行く時)伸ちゃんを誘うって学校へ行きました。

学校で、本を、見ました。とてもおもしろいでした。ぼくは、なんだかお母ちゃん(のこと)がさびしくなってきました。ぼくは、本を、なおして、本も読まずに、お母ちゃんのことを、心配ばかりしていました。」(6月12日[火])。

(*友幸は六甲の家で一人で寝て、学校へ行っている。食事は東隣の沖中さんのお宅でいただいた。

友幸は迷子になって以来、母と出かけるのを極力止めて、一人で留守番をするようになった。

その方がいつもお友達と日が暮れるまで外で遊ぶことが出来るからだ。

(4)メリー

「ぼくは、今日の晩(夕方)、ああちゃんらと深田池に行って、池で、笹舟を、浮かばして、遊んでいると、メリー(姫野さんのスピッツ犬)がもお、ちょっとで、自動車にひかれるとき、ほくは、メリーに「じっと、しとき」と言いました。メリーは「クン。クン」と言っています。自動車が行ってしまった時、ぼくはメリーの頭を、なぜてあげました。メリーはべろを出して喜んでいます。ぼくはメリーの頭をなぜてばかりいました。」(1956年6月16日[土])。

(5)メリーとの喧嘩

「ぼくは、今日の昼ぼくは走って家に帰ろうとしたら。(姫野さんの家の庭でメリーは人が通るとわんわん鳴くので、棒でメリーに威嚇した。すると不思議や不思議、庭には塀があり出て来れないのに、メリーは塀の隙間から出てきたのである。それでびっくりして逃げたが)メリーに後ろから飛びつかれて、お尻をかまれたので、ぼくは、『いたい』と大きな声を出しました。お母ちゃんが、びっくりして、外へ出て、走ってきました。お母ちゃんは、『大きな声を、出したら笑われますよ』と言いました。ぼくはこしのところを、手でこすってばかりいました。お母ちゃんが、家に帰って、お酢をぬってくれました。ぼくは痛いでしたが、がまんをしていました。あ母ちゃんが『ワイシャツがやぶれているよ』と言いました。」(友幸のお尻にはメリーに噛まれた歯形がついていた。)(1956年6月26日[火])